タナトスの海


空にそびえるのは今年完成したばかりの高さが一〇〇メートル以上ある巨大なビルだ。
ビルの途中の姿は夜の闇に掻き消され、地上から全て見ることはできない。
仮に昼間だとしても、この位置から最上階まで見上げようと思ったら、首を悪くしてしまいそうだ。
まばらに灯る部屋の明かりは、見事なグラデーションで、見る者を惹きつける。
空を遮るものがない小さなこの街では至極しごく当然の結果だとも言えた。
だからだろうか、私がここを選んだのは。
は光に群がる。
だったら、人が闇に群がっても不思議ではない。
もっとも、一部の人間だけであるが。
私は一歩踏み出して、二度と踏まぬ地上を後にした。
戻ってくるときは、私が私でないときだ。
もうここには何も残らない。
大切にしていたぬいぐるみも、お母さんも、友達も、全て置いてきた。
ビルに入り、真新しいカーペットを踏みつけながら、展望台へと通じるエレベーターに乗った。
エレベーターが動いた直後はふわっと浮いたような感覚に襲われたが、すぐに普段と変わらない、安定した地面となった。
地上から離れ、だんだんと人の波とヘッドライトの光が小さくなっていく。
中空を飛び回る鳥たちはこの風景を見て、いつも何を考えているのだろうか。
辺りを見渡すが、鳥の姿は見えない。
しかし、それは当然。
今は夜。
鳥たちにも黒い世界しか見えていないに違いない。
真っ黒な海。
漆黒だけが空を覆う。
山と空の境界は曖昧になり、まるでここが黒い海に浮かぶ孤島のように思えた。
うん、我ながら実にいいたとえだ。
この世界は暗黒で、何の夢も希望もないじゃないか。
最後にはこの暗い海に堕ちていくしかないんだ。
私の思考とは全く正反対の軽快なベルの音が響き、最上階に着いたことを伝えてくれた。

――行こう、私の居場所はここにはない。

最上階は展望台になっていた。
大きなガラスから下を見下ろし、誰しもがそこから見える夜景に酔いしれている。
私はそんなものには目もくれず、屋上へと続くドアに手をかけた。
当然予想していたとおり、ドアには鍵がかかっている。
私は傍に置いてあった大きな花瓶をゴロゴロと転がして、ドアの前まで持っていった。
中に入っていた花と水は辺りにぶちまけると、その時になってようやく何をしているのだろうと、夜景を眺めていた数人の視線が動いた。
そんなこと気にせずに、掛け声とともに花瓶を持ち上げ、ドアノブに叩きつけた。
花瓶の割れるけたたましい音とともに、強風が吹き込んでくる。
壊れたドアがキィキィと音を立てて、開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した。
その姿を見ていた人々は状況を掴めないようだったが、普通でない空気を感じ取って各々に動き出した。
しかし、私には関係ない。
これで道は繋がったのだから。
私は後ろから聞こえる喧騒けんそうを尻目に軽い足取りでビルの端まで歩いていった。
もうすぐだと思うと嬉しかった。
フェンスを乗り越え、わずかな隙間に足を乗せ、地上を見下ろした。
黒の中に浮かぶヘッドライトは、まるで蛍のようで、今まで自分がいた地上とは思えないほど幻想的だった。
一度大きな深呼吸。
私は、大丈夫。

「きっと、天国に行けるから――」

そして、何もない空に足を放り出した。
重力に足を掴まれ、身体が下に引っ張られる。
それに身体を預けた。
すぐ傍で誰かの悲鳴が聞こえたような気がしたけれど、すぐに遠ざかる。
エレベーターなんて目じゃないくらいのすごいスピードで景色が移り変わっていく。
気持ちいい。
私は空を飛んでいる。
鳥の飛行はあんなエレベーターみたいな遅いものじゃない、これが本物だ。
両手を空に掲げた。
楽しくなって、思わず笑っていた。
私は人間だから鳥ではない、天使じゃないか。
そう、私は鳥たちとたわむれながら美しく空を飛び回る、けがれを知らない清純な天使。
天使になれたんだ。
この穢れた身体はもう必要ないんだ。
それは幸せ以外の何者でもない。
私は天使になって、大きな翼を広げ、飛んでいる。
久しぶりに心の底から笑った。
この幸せを、他のヒトにも分けてあげたくて、誰かに微笑みかけた。
私は、今とても気持――


彼女の意識はそこで途絶えた。
流れ出る鮮血がアスファルトの上を真っ赤に染める。
普通の、平凡な日常を想像していた人々の悲鳴が響き渡り、その周辺は一瞬にして地獄と化した。
不断ふだんの日常のイメージが一掃されたのだ。
溢れ出した身体の臓器を捉える視覚。
地面に押しつぶされ、身体が圧砕あっさいする音を拾い上げる聴覚。
そして、生臭い血の臭いを吸い込む嗅覚。
『死』という日常の終焉しゅうえんであるのに、最も日常から遠い存在。

「まさか、こんなところで逢えるなんて」

群衆の中、コートに身を包んだ青年が微笑む。
その場にいた人間の顔は恐怖の色に塗りつぶされていたが、その青年だけはついさっきまで光を捉えていた目を澄んだ瞳で見つめていた。
そして、誰にも聞こえないような小さな声で、生を蹂躙じゅうりんした少女に問いかけた。

「――人を殺すのは、どんな気分だった?」



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