彩夏


次の日の朝は早かった。
なぜだかは解からないが、朝の7時に起きてしまったのだ。
普段は目覚ましを鳴らしていても寝入ってしまうことも多い。
でも、今日ばかりは目覚ましは機能しないまま終わった。

「……睡眠時間は……6時間ちょっとか……」

両手を上げて身体を伸ばす。
固まった筋肉がピンッと張って、気持ちがいい。
カーテンを開け放ち、外を見た。
夏の朝は早い。
5時頃にはもう明るくなる。
だから、もう外は真昼みたいに明るかった。
今日も夏は始まった。
青い空と白い雲が夏をより際立たせる。
さぁ、今日はバイト初日。

「がんばるか……」

もう一度、身体をグッと伸ばした。


「こんにちは。あのー、蛍川ですけど……」

シンッと静まり返った店内。
その雰囲気は昨日のそれと同じだった。

「いらっしゃい。待ってたわよ」
「こんにちは」

もう一度軽く頭を下げて挨拶をした。

「じゃあ、そうね……早速だけど、お店の前の掃除お願いしようかしら?」
「あ、はい」
「ちょっと待っててね」

紫月さんはそう言うと奥に入っていった。
一人になる。
昨日は緊張してあまりはっきりとは見られなかったが、ここの感じがようやく掴めてきた。
広さはそう、畳10枚分ぐらいだろうか。
昨日帰りに見た時、後ろにまだ家屋が続いていたので、家と店が一緒になっているんだろう。
地面はタイルが敷いてある。
が、それもカラフルなものではなく、薄い肌色になっている。
中心に木でできた棚があり、そこに8枚の絵が飾られている。
いや、正確にはいた、だ。
昨日俺が貰った絵の部分が欠けている。
おそらく、その反対側にもあるのでだいたい計14枚売り出してあるのだろう。
道路側には大きなガラスが張ってあり、路上を通ると中がよく見える。
光が差し込んでいて、電気もいらないぐらい明るい。
実際、天井の電気は点いていない。

「お待たせ」

店の感じに浸っていると、紫月さんが戻ってきた。
両手には箒、塵取り、バケツ、雑巾が握られている。

「あ、持ちますよ」
「じゃあ、これお願いね」

そう言ってバケツと雑巾を渡された。
紫月さんの後ろに続き、店の前に出た。
一気に夏の太陽の光が降り注ぐ。
針にも似た強い刺激が目に突き刺さる。
思わず、腕で目を覆ってしまった。
夏の生き物でまず思い浮かべる蝉。
殺伐とした街中とは違い、ここは蝉の声までよく聞こえてきた。
車の雑音に掻き消されてしまって、何だが、久しぶりに聞いた気がした。

「水道はそこにあるから、店の窓拭いてもらえる?」
「解かりました」

水道を捻ると勢いよく水が溢れ出してきた。
それだけで辺りが少し涼しくなる。
水に触れると冷たくて気持ちがいい。

「おっと、いつまでもこうしていられないな」

詮を締めてバケツを持ち上げた。
ずっしりとした重みを手に受けながらガラスに前まで来た。
紫月さんは箒で手際よく前の道を掃いていた。
俺も雑巾を水に浸けて絞り、ガラスを拭き始めた。
まめに掃除しているのか、あまり汚れてはいなかったが、それでも、埃や塵というのは溜まるものだ。
手を動かすと雑巾が通ったところが、スッと澄み切った。
掃除をすると気分がよくなるとよく言うが、まさにその通りだ。
だが、唯一暑いのだけが辛い。
夏は暑い。
夏らしいといえば夏らしいのだが、直射日光を浴び過ぎるのは正直疲れる。
あまり大きいガラスではなったのですぐにガラス拭きは終わった。
時間にして30分程度。
その時間でガラスは凛と透き通った。

「あ、綺麗になったわね」
「はい」
「お疲れ様。ところで、お昼ご飯はどうするの?」
「あ……もうそんな時間ですか……」

すっかり忘れていた。
初日のバイトのことで頭がいっぱいになっていた。

「お金はありますから、帰りに軽いもの買って帰ります」
「それまで、何も食べないの?」
「ええ、そうなりますね」

紫月さんは少し怒った顔になった。
そして、手を出して俺を額を軽く押す。

「もう、ちゃんと食べないとだめよ」
「あ、はい……」
「しょうがないわね。今日からお昼は作ってあげるから」
「え、そんな。悪いですよ」
「幹葉君は何でも遠慮深いわね。じゃあ、ご飯代をバイト代から引く。これでどう?」
「それなら……いいですけど……」

確かに作ってもらえるのはありがたい。
親が朝早いので無理に作ってなんて言えないし、コンビニの弁当なんかは高い。
それに、紫月さんのことだからちゃんと言っておかないと全部善意で作ってくれそうだから恐い。
やっぱりそこまでしてもらうのは悪い。

「それじゃ、決まりね。できるまで店の中掃除してて」

箒を手渡され、紫月さんは家の奥へと消えていった。
俺は言われたとおりに店の中を箒で掃き始めた。
店の中もやはり、目に留まるような大きなゴミは落ちてはいなかった。
それどころか、店の角や小さな隙間まで綺麗に掃除されていた。

「……これじゃ、バイトなんて雇わなくていいんじゃないか?」

それでも、必要でなければ雇わないだろう。
何かしらの理由ややって欲しいことがあるのだろう。
考えても解からないことは忘れて掃除を再開した。
しばらく経つと、紫月さんが奥から出てきた。
手にはお盆。
その上にはおいしそうなおにぎりと飲み物が乗っていた。

「できたわよ。少し休憩して、食べない?」
「あ、頂きます」

店の端っこに置かれている椅子と木の箱を運んできた。
木の箱をひっくり返してその上にお盆を置く。
お金を精算するところに向かい合うようにして椅子を並べた。
ただお菓子の入れ物にお金を入れているのでレジなのかは解からないがたぶんそうなのだろう。
一緒に持って来たコップに冷え切った麦茶が注がれた。

「どうぞ」
「頂きます」

まず、麦茶で喉の渇きを潤してからおにぎりを一つ手に取った。

「ごめんね。こんなものしかできなくて」
「いえ、問題は味ですよ」
「ふふふ、そうね。食べて合否を頂戴」

こっちが食べるのをにっこりとしながらジッと見ている。
とても、恥ずかしい。
ぱくりと一口噛り付く。

「どう?」

口に入れたと同時に紫月さんが答えを聞いてきた。

「塩加減も丁度で、中のシャケとかもとてもおいしいですよ」
「ふふっ、よかった」

子供のような笑顔を覗かせると紫月さんも手に取って食べた。

「自分で言うのもなんだけど、おいしいわね」

お互い笑い合った。
食べながらいろんなことを雑談した。
紫月さんはとてもおしゃべりみたいだ。
俺はほとんど相槌を打つ側に回っている。
でも、それでも紫月さんの話は楽しかった。

「あの、俺は午後から何するんですか?」

おにぎりを全部食べ終わって、動き出そうとしたとき、俺は午後の予定を聞いた。

「そうね……あとはお店を見ていてもらえるかしら?」
「あ、はい」

二人ほぼ同時に席を立った。
紫月さんがお盆を奥に運んでいる間に俺は木の箱を元の場所に戻した。
点番をするならどこか座るところが必要なので椅子は残しておく。
俺は誰もいない店内で一人、絵を鑑賞していた。
すぐに水の流れる音が聞こえてくる。
おそらく、紫月さんが洗い物をしているのだろう。
それにしても、午前中は短かったにしろお客さんが誰も来なかった。
しょうがないと言えばしょうがないかもしれない。
街外れという悪い立地条件。
おまけにほぼ皆無の宣伝。
ここが店だと理解するには入ってみるぐらいしか解からない。
看板も一様あることにはあるが、看板だけで入る人は少ないだろう。
入れば誰もが感嘆の声を漏らすような絵ばかりなのにすごく勿体ない。
でも、こういうものは見てもらわないと買う買わないの決断は出来ないし……。
一人でぶつぶつとこの店の行く末について考えた。
なんで俺がこんなことを考えるかは解からない。
でも、おそらく、ここをなくしたくないのだろう。

「お待たせ」

いつの間にか洗い物が終わった紫月さんが店に下りていた。

「あれ、また見てるの?」
「あ、はい。見ようと思って見てるんじゃないんですが、気が付いたら見てて」
「そう? それならうれしいんだけど。私の求めてる絵の形だから」
「絵の形?」
「うーん、なんて言うのかな。絵に限らず、本当に好きになってくれる人に貰ってもらうとこっちはとてもうれしいの。幹葉君みたいに」

にっこりと笑った紫月さんの顔はすごく、うれしそうだった。
でも、俺にはそのうれしさの裏側に儚さが含まれているような気がした。


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