彩夏


…暑い。
……暑い。
………暑い。
まるで常にサウナに入っているみたいな暑さ。
日本の夏とは湿気を含むため、気分的にも不快になる。

「あー、暑いー」

そんな言葉を言わずにはいられない。
大通りから細い小道へと足を進めた。
まだ車などの通行量が少ないためか幾分か涼しい気がした。
いや、涼しいと自分に言い聞かせないと、これからの夏本番には耐えられない。

「でも毎年こうして過ぎていってるんだけどな」

もう17年目の夏か。
と言っても赤ん坊のころは記憶がないのだから実質的にはもうちょっとは短いだろ。

「そんなこと言ってる場合じゃないな……」

きょろきょろと首を回す。
どこの店も死んだような雰囲気だ。
それがより空気の循環を悪くしているような気がする。
道もだいぶ細くなり、車一台通れるぐらいになった。
街の騒音もここまでは届かない。
空は快晴という他ない。
雲一つない澄み切った青。
夏の空というのは他の季節の空より青がより強い気がする。
俺が見る限り気がするのではなく、断定だ。
また、首をきょろきょろと辺りに向ける。

「流石ににこんなところにはないよな……」

溜め息を吐く。
やはり、一足遅かったの痛かったのだろう。

「もうどこもいっぱいだし……」

諦めて自分の家の方向に続く路地へと足を向けた。
こっちには来たことがないが、よっぽどのことがない限りどこかに出られるだろう。
その時、不意に横の建物が気になった。
気になったとは正しい表現ではないのかもしれない。
何も考えることなく、首はもうすでにそちらを向いていたからだ。
何の店かは解からないが、小さな看板に「黎明」と書いてある。
いつもは無視して通り過ぎるところだが、帰ってもどうせやることもない。
それに、こんな所にこそ掘り出し物があるのだ。
どんな代物と会えるのかとわくわくしながら店の戸を開けた。
その戸は昔の作りでガラガラと音を立てながら移動した。
木製でガラスが張ってある。
そう、昭和辺りの感じの家だ。
実際、この辺りは昔の名残が強いのでその可能性が高い。
中からは涼しい空気が流れてきた。
この感じはクーラーではない。
なぜか、店の中だけが森の中にいるような涼しさだった。
なんだか、ひんやりとした空気。
さっきまで治まることがないように溢れ出ていた汗も知らない間に引いてしまっていた。
その涼しい空気に付け加え、空気のそのものに何か違うものを感じた。

「なんだ……この匂い?」

どこかで嗅いだことのあるような。
そう……ずっと忘れている。
そんな匂いだ。

「そうだ……これは――」

油絵……。
小学校の時に美術の時間にしたやつだ。
絵の具自体に独特の匂いがある。
それを俺の鼻は覚えていたらしい。

「それにしても、これ、全部そうか――」

匂いの正体が分かったことで目の前にある世界に驚いた。
数はそう――15枚ぐらいだろうか。
その全てが異国の世界だった。
青、赤、緑――
多種多少な色が配置された風景。
おそらく、網膜に風景を保存できるのならこんな感じだろう。
だが、決して“写真”ではない。
“風景”なのだ。
俺は絵に詳しい訳ではない。
むしろ、無知に近い方だ。
ピカソなんかの絵を見てもどこがいいのか全く解からない。
それでも、これは素晴らしいと思う。
ただ、描いただけの絵ではなく、温かみが伝わってくる。
俺が初めて見惚れるしまった風景画だった。

「いらっしゃい」
「え? ……あ、こんにちは」

反応できなかった。
俺が吸い寄せられるように見ていたからだが、もう一つの理由としてその人の動作があまりに静かだったからだ。

「こんにちは」

その女性は優しく笑い掛けた。
腰まである長い髪。
おまけにその髪の色は薄い赤紫色で、その女性の雰囲気とぴったりと合っている。
見ただけで明らかに解かるほど痩せている。
腕なんて、すぐに折れてしまいそうなぐらい細い。

「そんなに緊張しなくてもいいのよ」

こちらの心境を的確に突く。
なぜ、自分が緊張しているのかやっと解かった。
その女性がとても清楚で綺麗だからだろう。
それ以外にも急に話しかけられたことが原因に挙げられる。

「え……えぇ」

思っていてもやはり緊張は解けない。
つい、言葉を詰まらせてしまう。

「ところで、その絵、そんなに気に入ってくれた?」
「あ、はい……。とっても綺麗で、なんだかとっても温かいです……」

その女性は最初見せた笑顔をもう一度見せた。

「そう。それじゃ、それあげるわ」
「え?」

予想外の展開に戸惑う。
俺の考えている選択肢にはなかったからだ。

「で、でも……売り物じゃないんですか?」
「ええ。売り物よ。でも、売り手があげるって言ってるんだから気にしなくていいわよ」
「そんな……頂けませんよ」
「それじゃあ、こうしましょう。その絵は0円。0という値段よ」

なんだか、よく解からない。
確かに値段という概念は存在するも、貰うということには変わりはない。

「一緒ですよ、そんなの」
「あら、遠慮深いのね。なら、あなたが思った金額でいいわ」
「ええ」
「……」

それはそれで困った展開になってしまった。
確かにこれを欲しいという気持ちはある。
でも、自分で決めるとなると金額の設定が難しい。
実際にこの絵の値段を知らない。
だからといって低い金額では失礼だと思う。
俺はズボンのポケットに入っている財布を生地の上から軽く触った。

「そんなに悩まなくてもいくらでもいいのよ」
「……」
「じゃあ、今、お財布にはいくら入っているのかしら?」
「え?」

ポケットから財布を取り出し、中を覗く。
中には1000円札が2枚、5000円札が1枚、あと小銭が10枚ほど入っていた。
俺の金銭感覚では今日は多く入っている方だ。
でも、この時ばかりはお金がなくなって欲しいとさえ思った。

「100円でいいわ」

今度は声も出なかった。

「あら、タダじゃないわよ。ちゃんと売買されているわ」
「どうして、そんなに安いんですか?」

思い切って聞いてみた。
明らかにおかしいと思ったからだ。
今までに安くしてもらったことはあるが、こんな極端なことは初めてだ。
俺の常識を超えている。

「ううん。私は安いとは思ってないわよ。それを好きになってくれることが私にとっては大きな収入だもの」

その言葉を聴いてなんだか、不思議な気持ちになった。

「わかりました。そこまで言うなら」

俺は財布から100円取り出すと、白い綺麗な手に手渡した。

「ありがとう。ところで、こんなところで何してるの? 若い人は滅多にこんなところこないでしょう?」

ああ、そうだ。
すっかり忘れていた。

「えっと、アルバイトを探していたんです。見つからなくて帰ろうと思ったらたまたま気になって……」
「アルバイト? 何か欲しいものでもあるの?」
「あ、いえ、特にこれといっては。ただ、夏休みだし、家にいてもゴロゴロしてるだけだから……」
「そう……」

女性は考え込みながら俯いた。
しかし、すぐに顔を戻すと、うれしそうに提案した。

「なら、うちで夏休みいっぱいバイトしない?」
「ここで……ですか?」
「そう。あまりお給料は払えないと思うけど」

ここでバイトか……。
うん、別にいいかもしれない。
特にお金がいる訳でもないし、何よりここの雰囲気が好きだ。
断る要素が俺にはない。

「じゃあ、お願いしていいですか?」
「ええ、ありがとう。私は紫月しづき澄音すみね。見ての通りの27歳。ここで絵を売っているわ。これからよろしくね」
「俺は高校2年の蛍川ほたるがわ幹葉みきは、17歳です。こちらこそよろしくお願いします」

何が一番驚いたかというと、紫月さんが27歳ということだ。
紫月さんは見ての通りと言っていたが別に十代を名乗っても全く不自然ではない。
まるで中学か高校から成長していないみたいだ。

「えっと、俺はどうすればいいですか?」
「そうね、明日……はお暇かしら?」
「俺の場合、忙しい日の方が少ないですけどね」
「なら、明日の……そうね、11時頃からはどう?」
「はい、解かりました」

その日はそれで店を出た。
外に出ると、もう日は沈みかけていて赤い光が辺りを照らしていた。

「……夏ってやっぱり色がはっきりしてるな」

手に持った草原の風景も、赤く染まる。
絵の中の世界もまた、夕方になった。


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