外視風景 1/精神感染


1−閉鎖

フロントガラスを叩きつける雨が視界を奪う。
ぬぐっても、すぐに雨の粒が一面に広がった。

「また強くなってきましたね」

今、車を運転しているのが俺、狭間はざましゅう
本当なら高校に通っている年齢なのだが、訳あって海葉みはさんの仕事を手伝っている。
手伝っているというか、き使われているというか。
今もこうして無免許で運転させられている。
自分の境遇にめ息をきながら、アクセルを緩めた。
雨の飛沫しぶきしか見えない窓から目を離さずに、海葉さんは口を開いた。

「台風が近づいてるんだ。強くなっても仕方ない」

少し開いた窓から煙草たばこの煙が車外に出て行く。
月読つくよみ海葉さん。
俺を助けてくれた命の恩人であり、俺の保護者である。
海葉さんは二十七、八なのでお母さんというには少し若すぎる。
確かに母親的な存在ではあるが、家事と名の付くものは全て他人に任せているので、どうも母親という感じはしない。
どちらかというと、少し大きなお姉さんといった感じだ。
外に出て行った煙は雨にき消されて、すぐに色を失った。
助手席に座っている海葉さんにとって、雨が降ろうが降らまいが関係ないらしい。
当たりさわりのない答えが返ってきただけだった。
そんな言葉が返ってきた以上、俺は黙るしかなかった。
雨の日の運転というのはどうしてこう神経を使うんだろう。
暗くよどんだ空と、雨の雫が視界を奪うのもあるだろうが、俺の場合、気分的なものの方が大きい気がした。
おまけに海葉さんがうるさいというのでラジオのボリュームもぜろだ。
明るい音楽でも流れれば、少しはましになるのだろうが。
音といえば、ボンネットを楽器にして雨が音を響かせているだけだった。
ワイパーの速度を上げた。
ほとんど意味のないワイパーの動きを見ながら、心の中で愚痴ぐちを言った。
俺が間違って依頼を受けたからこんな事になったんだ。
昼間の情景がまざまざと浮かんできた。
人探しだと思って受けた依頼が、実は迷子の子犬探しだったなんて珍事ちんじ、恥ずかしくて人に言えたものじゃない。
なんとか見つかって、依頼人のおじいさんが喜んでくれたのはよしとしよう。
多分、海葉さんの機嫌が悪いのはそこじゃない。
むしろ、おじいさんが普通の料金以上に礼としてお金を奮発してくれたので嬉しいはずだ。
原因はその後、俺がおじいさんができなくて困っていた力仕事を全部引き受けて帰るのが遅くなった事だ。
沈黙に耐え切れなかった俺はたえらず、海葉さんから強引に許可を取って、ラジオをつけた。
許しを得たのはラジオのニュース番組だけだったが、雨音よりましだった。
「それでは、ここで現在入っている台風情報をお知らせします。非常に強い大型の台風第14号は、17日15時に関東に最も接近します。現在は北緯35度13分、東経134度2分にあり、1時間におよそ20キロの速さで北北東へ進んでいます。 中心気圧は965ヘクトパスカル。中心付近の最大風速は31メートルで、中心の南東側100キロ以内と北西側90キロ以内では風速27メートル以上の暴風となっています。名古屋市内で最大瞬間風速――」

声はよく聞くが、名前は解からないアナウンサーの無機質な声が幾分いくぶんか雨の雑音を消してくれた。
ほどなくして天気予報は終わり、声が変わって一般のニュースが始まった。
酒に酔っ払って看板を人だと思い、殴って器物損壊で逮捕された男のニュース。
どこかの県で蜃気楼が前例のないぐらい綺麗きれいに見えたというニュース。
霧が発生していて視界が悪かったため、人をねてしまったというニュース。
どれも他愛もないことだった。
全てが他人事のように思えて、アナウンサーがいくら熱心にしゃべっても、何も伝わってこなかった。
それが起こったという事実だけが頭の中に記憶としてきざまれていく。
その雰囲気が俺の過去を呼び覚ました。
無機質で。
無関心で。
不必要で。
記憶をなくしてままで目覚めた病院。
海葉さんに会った場所。
初めて触れた異界。
生命の危機。
人の言葉が持つ負の感情。
その深淵しんえんに落ちていく。
それは、俺の心もむしばんだ。


「ボクハ、ナニモシテナイノニ?」


白い棺桶かんおけ
揺れるカーテン。
ドアから漏れる光。
四角い部屋。
薬の匂いがする服。


「ココニイルダケナノニ?」


「そうだよ」
冷たい笑顔。
無機質な表情。
熱を失った言葉。

「君は、ここにいちゃいけない人間なんだ」
「君がいれば、他の人が傷付く。彼女のようにね」

暗闇に浮かび上がる顔。
悲しそうに僕を見ている。
その顔を、僕はよく知っていた。


「ジャア―― どうしたら、いいの?」


一瞬の沈黙、そして、ただ一言。


「ここから……いなくなれば、いいんじゃないかな?」


「狭間」
「え……、あ、はい」

呼びかけられているのに気が付いて顔を向けた。

「大丈夫か?」

海葉さんがいつもの顔でこっちを見ていた。

「……はい」

灰皿から煙が上がっている。
いつの間にか海葉さんは窓から目を離し、二本目の煙草を吸っていた。
先端が赤く染まり、少しずつ白を侵食していく。
ラジオも止まっていた。
山奥に入ったから電波が来なくなったのだろうか。
それとも、海葉さんが切ってしまったのだろうか。
どちらにしても、ラジオが音を出さなくなったという結果は変わりなかった。

「過去にとらわれるな、とは言わないが運転中はやめてくれ。そんな精神状態で運転されては恐くて落ち着いて煙草も吸えない」
「……すみません」

溜め息を吐きながら海葉さんはまだ少しも吸っていない煙草を灰皿に押し込んだ。

「困ったものだな。雨のせいで古傷が痛む」
「古傷なんてありましたっけ?」

海葉さんなりに気を使ってくれたのだろう。
冗談なんて滅多に言わない人なのに。

「さぁ、どうだっただろうな」

おかげで俺は気分を持ち直した。
改めて気を引き締め、ほとんど見えないフロントガラスとにらめっこをした。
また雨音だけが車を包み込むように響く。
その音に溶け込むように、海葉さんが何か呟いた。

「だが、まだ癒えない傷もある――」
「え?」

あまりに小さい声だったので、俺の耳には少しも届かなかった。

「なんて――」

言いました、と聞こうとしたが、それは最後まで口に出すことができなかった。
その瞬間、俺の脳はしゃべることを禁止させてブレーキを踏め、と命令していた。

「猫!?」

獣が横切ったのだ。
シートベルトが身体を締め付ける。
車はガタガタと震え、ブレーキの音が峠の山道に響き渡った。
ただでさえ道路は水を含んでいて、氷の上のようになっていたのに、たかが二十メートルほどの距離で車が止まれるはずがなかった。
車体は滑り、完全に操縦者の手から離れていた。
そして、その前方、夜の暗黒に飲まれるように、ぽっかりと口を開けた地面。
道路が、欠けていた。
ガクンと車が傾き、土の斜面を滑り落ちる。
き出しの岩が車体を削っていく。
俺も海葉さんも必死に衝撃に耐えていた。





「……大丈夫か、狭間」
「……なんとか」

斜めに傾いている木に当たって、やっと車が止まった。
変形したドアを力いっぱい押して外に出た。
上を見るとねずみ色の道路が崩れ、茶色の土が覆い被さっていた。
まだ斜面を小さな石が転がっていた。

「雨で土砂崩れが起きたんですね」

恐い思いをした割に俺はとてものんびりした口調で言った。
いや、恐い思いをしたからこそ、そうなっていたんだろう。
こういうときは以外に冷静だったりするものだ。
だが、海葉さんは混乱していた。
顔面蒼白がんめんそうはくで絶えずうろうろと歩き回っている。
もっとも、恐怖が原因ではなく、車が壊れたことへのなげきではあるが。

「海葉さん、すみません……車、壊しちゃって」

車の周りをぐるぐる回って何かを見ていた海葉さんは、もうこの車もう駄目だというようなジェスチャーをした。

「まぁ、反射的にブレーキを踏んでしまうのはしょうがない。落ちたのも偶然土砂崩れが起きてただけだ。どうしようもなかっただろう。保険も降りるだろうし……私が運転していたということにしておけよ。未成年の狭間に運転させていたことが知れれば、保険金どころか警察に突き出されるからな。いや、それ以前に、お前はこの社会に存在していないことになってるからな」
「……はい」
「それより問題は……」

木々がうごめく真っ暗な山を見渡した。

「どうやって帰るか、だ」

黒い景色が続いていて、十メートル先もよく見えない。
こんな真っ黒を見たのは久しぶりだった。
都会の光に慣れてしまった俺の目は何もとらえてはくれなかった。
道路ははるか頭上にあって、軽い崖のようになっている。
また、携帯の電波も入らなければ、公衆電話もない。
連絡手段は完全に絶たれていた。
加え、バケツをひっくり返したような大雨で足元はぬかるんでいた。
これ以上悲惨な状況なんてなかなか考えられない。
今年一年の不幸がまとめてやってきた感じだ。
雨が葉を打つ音がいっそう強くなってきた。
いよいよどうするか決めなければならなくなった。
まさか、こんなところで野宿なんてできるわけもないし。

「どうするんですか、海葉さん。このままじゃ、肺炎で入院しなくちゃならなくなりますよ」
「言われなくても解かっている。だが、私に聞いても、お前と同じことしか言えないぞ」

期待はしていなかったが、何かしてくれという方が難しい。
とにかく歩きましょう、と言って暗い山の中に足を進めた。
水を含んだ土が歩くたびに靴の底に絡みつく。
木の下を歩くと幾分か雨は弱くなったが、降り注ぐ全ての雨粒を弾いてくれるわけではないので、気休めにしかならない。
十一月だというのに吐く息は白く、急速に体温を奪っていった。
靴に水が染みこんできた頃、海葉さんが声を上げた。
あまりに唐突だったので、一瞬身体がびくっと震えた。

「狭間、私にはあれが光に見えるが、おまえはどうだ?」

えっと驚いて海葉さんが向く先を見つめる。
そこには怪しげな薄い赤が浮かんでいた。
人気のない山奥にかすむように浮かんでいる光は、少し気味悪い。

「人魂でしょうかね。それとも、山姥やまんばでしょうか」
「さぁな。しかし、光があるということは何かあるということだ」
「今は人工の光だと信じたいです」
「なら、決まりだな」

遠くに見える光を追って足を進めた。
いくら歩いても近づけない、というようなオカルトめいたことは一切なく、それは人魂でもなかった。
発光源が霞んでいたのは雨の仕業だった。
古びた家々がまるで外界との接触を避けるようにせめぎあって林立していた。
藁葺わらぶき屋根の家のせいでまるでどこかの時代にタイムスリップしたかのようだ。
日本の古い風景が保存されていた。
雨がしたたり落ち、屋根の下だけがやけにぬかるんでいて、足跡が残っている。
踏むと、水溜りが土でにごり、足が沈んだ。
一番手前にある民家を尋ねることにした。
他の家と比べると一回り大きく、綺麗に整った広い庭があり、大きな門が口を開けていた。

「ごめんください」

電波の入らない携帯を見ると時刻は夜の九時。
人の家を訪ねるには少し遅いがもう寝ているということはないだろう。
状況が状況なだけに、迷惑でも頼らないと仕方がない。
呼んでから少しつと、奥から返事とともに足音が聞こえてきた。
そびえる門がギシギシと音を立てながら開いた。
そこには一人の老人が立っていた。
白髪混じりの頭。
折れた腰。
昔話に出てくるおばあさんはこんな感じではないだろうか。
山姥ではなさそうだ。

「夜分遅くに申し訳ありません。ちょっと土砂崩れにあってしまって車が動かなくなってしまったんです」
「そりゃ、大変だね。怪我けがは大丈夫かい?」
「あ、はい。怪我はないんですが、街に連絡取りたいんです。でも、この辺、電波が入らなくて、携帯が使えないんです。なので、よろしければお電話をお借りしたんですが……」
「電話はいいけど、今夜はどうするつもりだい?」

海葉さんの方を見ると、いつの間に煙草を吸っていたのか、闇に向かって煙を吐いていた。
どうやら、全て任せたということらしい。

「どうしましょう」

答えが見つからなかったので困った笑いを浮かべた。

「この辺りに旅館とかないですか?」
「こんな辺鄙へんぴなところにそんなものないよ。どうだい、よかったら泊まっていかないかい?」
「え……いいんですか?」
「年寄り一人の寂しい家だからね。たまにはにぎやかなのもいいよ」

海葉さんにも確実に聞こえているはずなのに、相変わらず無関心だった。
俺が決めろということだろう。
それにしても、身分も解からない人間をこうも簡単に泊めてしまっていいのだろうか。
別に俺たちは盗みにきたわけではないが、もうちょっと危機感を持ってもいいのではないか。

「こんな雨の中にいる子供を放っておく人がどこにいるんだい。大丈夫だから泊まっておいき」

ああ、そうか、と納得する。
これが人本来の思いやり、都会では失われた心か。

「じゃあ、お言葉に甘えさしてもらいます」

頭を下げるとおばあさんは嬉しそうに家に招きいれた。
入ってすぐに広い玄関が姿を現した。
五メートルほどもあろう高い天井。
そばには長い梯子はしごが置いてあり、そこから屋根裏へいけるようになっていた。

「どうぞ」

おばあさんについて、靴を脱いで家に上がった。
玄関に比べて部屋の天井は低くなっていたが、それでも十分に高い。
冷たい木の感触が伝わってくる。
木の床が歩くたびにぎしぎしと声を出した。

「古風だな。都会の人間には見慣れない家だ」

海葉さんが初めて口を開いた。
さすがの海葉さんでも人の家の中で堂々と煙草は吸わないらしい。
さっきまで吸っていた煙草はまた半分残っていたが、捨ててしまっていた。

「年寄りにはこっちの方が落ち着きますよ」

おばあさんについていくと居間に通された。
一人でいるには広すぎるその空間は、今ではすっかり減ってしまった日本の伝統が押し込められていた。
一面の畳、障子しょうじふすま……。
中には名前を知らないものもあった。

「汚いところですが、どうぞお座りください」

炬燵こたつの中に足を入れる。
すると、足は床と垂直になってしまった。

「これって掘り炬燵ですか?」
「そうだよ。足が楽だろう」

いつも使っているものは床と足を水平にしなければならないため、長時間座っているのはきつい。
だが、これなら楽に足を伸ばすことができる。
定位置から動かせないというデメリットはあるが、俺はこっちの方が好きだった。

「本当にありがとうございます。あ、申し送れましたが、俺は狭間柊といいます。こっちは月読海葉さんです」
「狭間君と月読さんだね。私は実果みら秋絵です。よろしくね」
「こちらこそ」
「そうそう、御飯はもう食べたかい?」
「あ、いえ、まだですけど」
「なら、腹がすいているでしょう。ちょっと待ってなさい。御飯と味噌汁ぐらいなら用意できるからね」
「いいですよ、そんな……」

しかし、秋絵さんはにっこり微笑んでどこかに行ってしまった。

「いいじゃないか、狭間。用意してくれるって言ってるんだから、ありがたく頂こう」

海葉さんはすでにくつろぎモードで、ひじをついて欠伸あくびをしていた。
掘り炬燵と海葉さんはとてもミスマッチだった。

「余裕ですね」
「余裕じゃない。車が壊れたじゃないか。それだけで私は泣きたい気分だよ。それより、絢那あやな静鳴しずなに連絡しておかないと。あと、警察にも」

そう言いつつも炬燵から出ないところを見ると、自分で動くつもりはないらしい。
相変わらず、人使いの荒い人だ。
小さく溜め息を吐いて炬燵からい出した。
秋絵さんの通ったであろう廊下を辿たどると台所に着いた。
おいしそうな味噌汁の匂いが立ち込めていた。
電話を借りるというむねを伝えると、ある部屋に案内してくれた。
お礼を言うと秋絵さんは台所に戻っていった。
まず、警察に電話をして事故になったことを伝えることにした。
すると、ここの近辺で同じような小さな土砂崩れが相次いで、道路が寸断されているので一日二日はこっちに来ることができないと言われた。
どうやら俺たちは陸の孤島に取り残されたらしい。
怪我がないというと警察の人は復旧するまで待機していてくれと言って電話を切った。
土砂崩れじゃしょうがない、と諦めて今度は絢那たちに電話をした。
二回ほどコールした後、元気で明るい声が聞こえてきた。

「はい、こちら月読探偵事務所です」
「もしもし、静鳴か?」
「あ、柊? 遅いから心配してたんだよ。絢那ちゃーん、柊から電話だよ」

遠くに向かって叫ぶ声がした。
この時間だと絢那はご飯を作っているのだろう。

「それで、どうしたの?」
「ああ、ちょっと帰りに土砂崩れにって車が大破しちゃってさ」
「えっ、土砂崩れって……大丈夫なの?」
「不幸中の幸い、俺も海葉さんも傷一つない。だけど、他の場所でも土砂崩れが起こって帰れなくなったんだ」
「どこにいるの、カプセルホテル?」
「いや、旅館すらない田舎だよ。今は親切的な人の家にいる。泊めてくれるって」
「ならよかった。あ、絢那に変わるね」

遠くで声が聞こえ、今度は優しい声に変わった。

「柊さん、大丈夫ですか?」
「なんとか。詳しいことは静鳴に言ってあるから」
「はい。しばらく帰れないんですね」
「車も潰れちゃったし、道もふさがってるからな。とりあえず、無事だから心配しないで」
「解かりました。また何かあれば電話くださいね」
「ああ。じゃあ、おやすみ」

その言葉を最後にして電話を終えた俺は、来た道を逆に歩いた。
位置的に最初にいた居間に近いはずだが、間取りを知らない俺にとって最短距離を行くことは無理だった。
雨音が染み込んでくる廊下を渡る。
靴下を履いているとはいえ、足を裏を伝わって感じる冷気は容赦ようしゃなく熱を奪っていく。
冷たいという感覚を通り越してひりひりと痛んだ。
早く掘り炬燵に入りたい。
身体がすっかり温かさを恋しがっている。
やがて途中で通った台所に戻った。
他の部屋より暖かい。
秋絵さんが料理をしていたからだろう。
しかし、今は台所はもぬけの殻だった。
どうやら秋絵さんはもう戻ってしまったようだ。
今度はそこから居間に戻る道をなぞった。
外を見渡せる廊下は中の廊下よりさらに気温が低い。
もしかしたら雪でも降るのではないだろうか、とさえ思ってしまう。
この大雨が雪なら一面の雪化粧になるのに一時間とかからないだろう。
家の中をぐるぐると回り、やっとの思いで俺は居間に戻ってこれた。
事務所じゃ考えられないほど歩いた気がする。
だいたい疲れるほど歩かなくちゃならない家ってどこかおかしい。
慣れてる人には別になんともないだろうけど。

「遅かったな、狭間。電話はどうだった?」

海葉さんはすでにはしを持ってご飯を食べていた。

「悪い知らせが一つあっただけです」
「あまり聞きたくないな」
「まぁ、そう言わずに」

掘り炬燵に足を入れると同時に目の前に茶碗が置かれた。
白いおいしそうなご飯が湯気を出している。

「あ、すみません。ありがとうございます。……それで、悪い知らせですが、この近辺で他にも土砂崩れが起きてるらしいんです。だから、警察も来れなくて一日二日、待ってくれと……」
「つまり、この大自然のおりに閉じ込められたって事だな」
「そうなりますね」

頂きますと言って俺も箸を持った。
ご飯が出るというだけで感謝しなくてはならないのに、食卓には味噌汁とお漬物、そして焼き魚まで並んでいた。

「すみません。わざわざこんなに用意してもらって」
「大丈夫だから、いっぱいお食べ」

秋絵さんにもう一度頂きますと言ってから白い湯気を上げる御飯を口に運んだ。
火傷やけどしてしまいそうなほど熱いご飯。
ほかほかという言葉が似合っていた。
ご飯を食べ終わる頃には冷たかった足もすっかり熱を取り戻していた。


風呂から上がってくると、先に上がった海葉さんと秋絵さんがテレビを見ていた。
和風の家で炬燵に入りながら年寄りとテレビを見ているなんて、海葉さんを知る者が端から見ればかなり変な光景だった。

「湯加減は大丈夫だったかい?」
「ええ、いいお湯でした。でも、お風呂まで用意してもらって……」
「いいんだよ。孫が来たみたいで賑やかで楽しいからね」

多少は会話はあったが、賑やかというには少し足りない気がした。
しかし、秋絵さんはとてもいい笑顔をしているので、本音なのだろう。

「それより、狭間君には五右衛門風呂ごえもんぶろは珍しかったんじゃないかい?」

五右衛門風呂と聞いて一瞬止まったしまったが、あの変な形の風呂のことだと解かってうなずいた。

「あんなの入ったの初めてですよ。なんかお釜みたいですね」
「今のはスイッチ一つでお湯が沸くけど、昔はみんな火を起こして釜を暖めてたんだよ。息子夫婦がどうしてもっていうから少し前からうちにはボイラーが付いてるけどね」
「へえ。どおりで熱いわけです」
「底には板を敷いてあるから大丈夫だけどね。周りは熱いよ。火傷しなかったかい?」
「はい」

話が一段落すると、秋絵さんは俺と海葉さんを寝室に案内してくれた。
廊下を歩くと、外の風の音がよく聞こえた。
木を根こそぎ持っていってしまいそうなほどの大きな風が、家全体に吹きつけている。

「家が古いからね。隙間風すきまかぜが入ってくるけど、堪忍しておくれ」

確かにところどころから風が入り込み、戸がカタカタと揺れていた。
微妙に空気の流れを感じる。
でも、気になるほどではなったし、よくしてもらっているのに文句なんて言えるわけがない。
居間から少し行ったところにある部屋に通された。
広さは六畳ほどで、押入れがあるだけの部屋だった。
真ん中には布団が一枚だけ敷かれていた。

「……ばあさん。布団がなければこいつは炬燵で寝かせればいいぞ」
「えぇ、そんな、海葉さんー」

海葉さんは真顔でそんなことを言っている。
海葉さんなら実力行使してでも俺を追いやるはずだ。

「ははは、大丈夫だよ。襖の奥にもう一つ部屋があるから」

押入れかと思ったものは部屋を仕切る襖だった。
そこを開けると奥にもう一つ、六畳ほどの部屋があった。
仏壇ぶつだんとこがなんともいえない雰囲気をかもし出している。

「場所がないから座敷ざしきで寝てもらうけど……ごめんね」
「そんな、十分ですよ」

寝るだけならなんら不自由しない広さだった。
狭い広いというより、俺たちのためにわざわざ別の部屋を用意してくれたところがすごいと思った。

「それじゃあ、ゆっくりお休み。朝御飯ができる頃に起こしにくるからね」

案内が終わると秋絵さんはすぐに部屋を出ていった。

「なんかよくしてもらってばかりですね」
「そうだな」

海葉さんの反応が悪い。
気が付けば、もう日付が変わっていた。
どうやら海葉さんは眠いようだ。
普段ぼーっとしているので、あまり疲れてないという印象が強い海葉さんだが、なぜかよく眠る。
起こさなければ十二時間は普通に寝ている。
いつも絢那に起こしてもらっているが、明日はちゃんと起きてくれるだろうか。

「それじゃあ、今日はもう寝ましょう」
「ああ」

小さくそう言うと海葉さんは座敷に入っていった。

「……そうだ」

海葉さんは襖を閉める手を止めた。
向こうの部屋は真っ暗なので、海葉さんの顔も黒一色に塗りつぶされていた。

「なんですか?」
「いや、おやすみと言おうと思っただけだ。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」

本当にそれだけだったらしく、挨拶を終えると襖を完全に閉めてしまった。
布団の擦れる音が止むとそれからはなんの音も聞こえてこなかった。

「……俺も寝よう」

考えるとすぐに布団に潜り込んだ。
冷たい部屋に放置されていた布団は冷気をまとっていたが、しばらくすると自分の体温で温まってきた。
崖から落ちるというまれなイベントを無事乗り越えた俺の身体には、大量の疲労が蓄積されていた。
明日にそれを引きずらないようにと、身体はすぐに布団を受け入れたが、慣れないところで寝ようとしているためか、なかなか寝付けず何度も寝返りを打っていた。
しかし、三十分もすると風の音が遠くに聞こえ始めた。
海をただよう感覚が身体を覆う頃には俺の意識は途絶とだえていた。


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